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歌舞伎町ディスコ女子中学生殺傷事件 1982(昭和57)年

歌舞伎町ディスコ女子中学生殺傷事件 1982(昭和57)年

朝日新聞(1982年6月7日)

【事件の概要】

『FOCUS』1982年6月25日号

ディスコ「ワンプラスワン(1+1)」

1982(昭和57)年6月6日、前夜から入店した新宿区歌舞伎町のディスコ「1+1(ワンプラスワン)」で徹夜で踊っていた家出中の女子中学生2人が、午前4時過ぎに店を出たあと訪れたゲームセンターで学生風の若い男と知り合い、ドライブに誘われて男の車で千葉市横戸町の花見川サイクリングコース近くの山林に行ったところ、1人が野外で襲われ、右首筋を切られ殺害されました。彼女の両足首のアキレス腱は、首を切ったあと逃げないように念を入れたのか、犯人によって切断されていました。またそれを知らずに車で眠っていたもう1人も、目が覚めてから車外に誘い出され、顔を殴られ首を絞められて気を失いましたが、死んだと思った男が立ち去ったために、幸い軽傷で助かりました。

殺されたのは東京都港区立高松中学校3年生の落合雅美さん(14歳)で、一緒だった友人は前年12月まで雅美さんが通っていた茨城県古河市の中学校の同級生A子さんです。

被害者の落合雅美さん

警察は、凶器の果物ナイフや首を絞めたビニールホースを準備していたことから計画的な犯行と見て、A子さんの証言をもとに犯人の似顔絵を作成し捜査を続けましたが、容疑者を割り出すことができないまま1997(平成9)年に時効を迎え、事件は迷宮入りになってしまいました。

犯人の似顔絵

犯行目的については、雅美さんのバッグから2万円がなくなっていることや、遺体近くの草むらに人が押し倒されたような跡があったことから、強盗・強姦目的(性的暴行の痕跡はなかった)あるいは快楽殺人ではないかなどと推測されましたが、それもわからないままです。

【落合雅美さんとは】

殺された落合雅美さんとはどういう人だったのか、新聞・雑誌からわかる範囲でまとめておきます。

雅美さんは、2歳の時に両親が離婚した後、母親が身を寄せた茨城県古河市内の実家で祖父母と一緒に暮らしていましたが、母親が東京に働きに出たため、残された彼女は祖父母に育てられました。

離婚自体はまだ幼かった彼女には何の記憶もなく、祖父母には愛情深く育てられたようです。しかし、中学の友人に「私は父親を知らないから……」と話していたと伝えられるように、思春期を迎えるころになると親の離婚は雅美さんの心に複雑な思いをかき立てたようです。そこには、母親に置いていかれたという気持ちが加わっていたかもしれません。

「バツイチ」(離婚経験1回)という軽妙な表現が『現代用語の基礎知識』に若者用語として掲載されたのは1993年です(Wikipedia)。このころから離婚に対する負のイメージは次第に薄れていきますが、それはまだ10年も後のことで、この事件当時はまだ、離婚は人生の失敗であり恥ずかしいことだと世間では思われていたのです。

けれども明るい性格の雅美さんは、表面的には何の問題も感じさせることなく中学生活を送っていました。しかし、中学2年生の夏休みが明けるころから、校則に違反して髪を伸ばしたり染めたりといった「異変」が見られ始めたようです。さらには喫煙が見つかったり校内のツッパリグループとも関わるようになります。

「自分探し」に心が揺れる年ごろになった雅美さんの中に、「普通」の家庭で育たなかった自分には、型どおりの「普通」の生き方はできないあるいはしたくないという気持ちが、夏休みに経験した何か(東京に遊びに行くなど)をきっかけに急速に強まったのではないでしょうか。

そして雅美さんは中学2年生(1981)の12月祖父(71才)の死をきっかけにホステスをしている母のとみ子さん(38歳)と東京のマンションで一緒に暮らすようになり中学校も転校します。母親からはいろいろ話を聞いたり相談に乗ってもらいたい——雅美さんはそう期待して母との新しい生活を始めたことでしょう。

しかし、学校から雅美さんが帰るのと入れ替わるように夜の仕事に出かけ深夜にならないと帰宅しない母親とは期待外れのすれ違いの生活でした。孤独や寂しさを抱えた雅美さんと母との間は、次第に距離ができていったようです。

転校先の中学校で雅美さんは、最初こそクラスに溶け込めなかったようですが、明朗で「姐御(あねご)肌」の彼女は、後輩の相談に乗ったり、いじめられている子をかばったり、教室でふざけて騒ぐ男子生徒をたしなめたりして、教師や生徒の間でも決して評判は悪くなかったと言います。

けれども、中学3年生になり教室が高校受験モード一色になっていくと、雅美さんはここでも自分の身の置きどころに悩むようになります。

1980年代の高校進学率は、男女ともすでに90%を超えていましたから、彼女も高校に行きたいという気持ちはあったようです。しかし、母親に負担をかけることや将来への不安などから進路を決められずに迷っていたところに、「〝普通〟には生きられない自分」という思いがまた頭をもたげたのでしょう、心が不安定になっていきます。

雅美さんは、春ごろから学校を休みがちになり、夜の繁華街をうろついたり無断外泊(家出)をするようになります。5月の連休には、ディスコで知り合った暴走族グループに加わってバイクに乗っていたとも言われます。

心配した母親は担任教師や警察に相談をし、少年課の警官に説諭された彼女は「もう無断外泊はしません」という誓約書を書いたようです。しかしまたすぐに「自分のやりたいようにやる!」と言い出すなど、雅美さんの気持ちは揺れ続けます。

そして雅美さんの4度目の家出で、ついに事件が起こります。

5月29日に学校を休んで古河市に遊びに行きA子さんと会った雅美さんは30日、新宿のディスコに連れて行ってほしいとせがむA子さんと一緒に東京に出ます。

それから2人は、母親が不在中の雅美さんの自宅やA子さんの姉の家に寄ったり、新宿をぶらつきながら以前にディスコで知り合った女性の家に泊めてもらったりしていたようです。

これまでの無断外泊と違ってなかなか帰ってこない娘を心配した母親のとみ子さんは、家出から5日たった6月4日になって、ようやく警察に捜索願いを出します。

しかしその2日後、雅美さんは犯罪に巻き込まれ帰らぬ人となってしまったのです。

このころ雅美さんがどんなことを考えていたのか、事件が起こるすぐ前の5月中旬、学校の国語の時間に「人として大切な事」という題で書いた彼女の作文からうかがうことができます。

ぜひ読んでください↓↓↓

(原文のまま)

「今までの私は、とにかく目立っていたかった。それは他人から見れば、ばかげている事かもしれない。でもそれは私にすれば、それはただ一つの自己主張だった。それが、いい事でも、悪いことでも私はその事を一生懸命やった。その時、私は親や親類、祖父母に、心配をかけた。私は心配かけているとわかっていても、同じことを何度もくり返した。

そんな時祖父が亡くなってしまった。心きんこうそくだった。私は大切な人を失ってしまった。私は自分が殺したんだと思っている。今までのことを全て改めたとしても死んだ人は戻ってこない。私はその時はじめて気がついた。今まで私は人間にとって一番大切な愛情をすてて今まで生活してきた事を。私はこれからどんな人生を送るかわからない。でもこの祖父の死を私は心において生きていくだろう。

私は今までいろんな事を体験してきた。私は人生の落ちこぼれかもしれない。でも自分のしたい事もできず、表面はまじめぶってかげで悪い事を平気でしている人よりは、人の心もよくわかる。私は人に落ちこぼれといわれたとしたらそれでもいい。私は今まで生きてきた行動で私は、ふつうの人に体験できない人に対する優しさ、思いやり、色々なことを学んだ。これから私は、自分の思った通り生きていく。でも私は絶対こうかいはしたくない自分に負けずに生きていきたい。」

               落合 雅美

「私はここにいるよ」と精一杯自分の存在を主張しようとした雅美さん。

しかし、ツッパるあまり自分に注がれた愛情を無視して来たことに、可愛がってくれた祖父の死への反省から気づきます。だからこれからは、世間から「落ちこぼれ」と言われようとも、今まで学んだ人への優しさや思いやりを忘れず、自分の思いにどこまでも正直にくじけることなく悔いのない人生を送りたいと、不安な心を落ち着かせようとするかのように、しっかりとした文章で書いています。

しかし、新宿歌舞伎町の光り輝く歓楽街には、雅美さんのそうした思いなどいとも簡単に飲み込んでしまう暗い欲望が渦巻いていたのです。

生き残った被害者A子さんの証言があり、多くの手がかりが残されていたにもかかわらず、犯人が検挙されることなく時効を迎えてしまったこの事件については、政治家や警察幹部の関係者の犯行だったためにもみ消されたのではないかと疑う声が上がりましたし、外国人のプロの犯行ではとかネットに犯人からの書き込みがなど、さまざまな憶測が今も流されています。

朝日新聞(1982年6月9日、10日)

もちろん小川も、今からでもこの冷酷非情な犯人の正体が暴かれ、せめて社会的制裁だけでも加えたいと思いますが、小川の一番の関心被害者の声にならなかった無念に寄り添って事件を考えることですので、犯人探しについては踏み込まずにおきます。

【事件の波紋と対策】

この事件では、ディスコが「午後11時半閉店」や「18歳未満立入禁止」という風俗営業等取締法(風営法)の規制を無視して深夜や未明まで営業し、また中高生も自由に入場させていたことが、犯罪や非行の温床になっていると大きく問題にされました。

そこで警察はさっそくディスコの規制強化に動きます。また事件から2年後の1984(昭和59)年には、風営法が警察の権限と違反店舗への罰則を強める方向で名称・内容ともに大きく改正され、それによってディスコは衰退していくことになるのです。

朝日新聞(1982年6月7日夕刊)

しかし、風俗店への取り締まりは、規制が強化されると表面的には「健全化」したように見えながら、脱法的に衣替えをしたり「裏の世界」へ隠れてより悪質で危険なものになったりといったことが繰り返されてきました。

ディスコが中高生のたまり場になっていたとのことですが、そこには、新宿署が事件の前年(1981)に無断外泊で補導した未成年者は3,700人でうち女子が2,500人と7割近く。中学生は370人でうち女子は170人だったという現実があります(「読売新聞」1982年6月12日夕刊)。つまり、深夜になっても家におれない、あるいはいたくない事情を抱えた中高生がそれだけいるということです。

1982年の全国統計(「警察白書1983」)でも、未成年の家出人の40%は中学生で、女子でも中学生が最多でした。

家出少年の学職別・男女別状況(「警察白書 1983」)

また1981年に性非行で補導された未成年女子は8,562人で、高校生が3,023人と最多ですが、中学生も1,822人で前年に比べ205人(12.7%)増加し、全体の21.3%を占めました(「警察白書 1982」)。厚生省によると、1981年の未成年女性(少女)の妊娠中絶数が2万件を突破し史上最悪になったとのことですが、性非行の増加がその大きな要因になっていることは間違いありません。しかしこれらの数字も認知件数に過ぎず、実態はさらに多いものと思われます。

このような現実を見ると、ディスコなどを閉鎖に追い込んで「たまり場」をなくせば問題が解決するものでないことは明らかです。補導して家に帰そうとしても、その家が彼ら彼女らにとっては居づらい場所なのです。

ですから、警察官を動員して街の治安対策と監視に力を入れるだけでは、居場所を失い夜の街をさまよう未成年の若者たち、特に性犯罪の被害者になりやすい少女たちを、さらに危険な闇の中に追いやる可能性すらあるのです。

朝日新聞新聞 1982年8月18日

小川里菜の目

落合雅美さんが、ただでさえ人生で最もあやうく揺れやすい心を抱えた中学生という年ごろに、自分は「普通」には生きられないと思ったとすれば、それはなぜなのでしょうかショボーン

この事件を扱った『週刊明星』の記事では雅美さんのことを、「いわゆる〝普通の家庭の子〟ではなかった」と書いています。つまり両親が離婚した雅美さんは、「両親の庇護のもとに育ち、何不自由なく育った〝普通の子〟とは違い、心のどこかに家庭環境からくる影を落としていたとしても不思議はない。」というのです。

先に、今から40年前には離婚は世間体の悪い恥ずかしいことだったと書きましたが、両親そろった「正常家族」に対して、片親だけは「欠損家族」という言い方がまだ役所でさえ使われていた時代だったのです。そして、「正常家族」は子どもの健やかな成長に必要であり、「欠損家族」の子どもは非行などの問題を抱えやすいと一般に思われていましたキョロキョロ

今であればそれは差別的な独断と偏見であり、逆にそうした社会の蔑視が単親家庭の子どもの自尊心を傷つけ心に影を落とさせるのだと分かるでしょうが、あの時代の子であった雅美さんは、母子家庭であるだけでなく母親とも別れて暮らす自分を、記事が言うように「普通の子」ではないと自ら思ったのではないでしょうか。

もしも自分には「普通」の生き方ができないのであれば、自分は逆に「普通」の枠に縛られない自由な生き方をしてやろう、そのためにはどんなことでも自分のやりたいままに経験してみよう——「ハッキリした姐御肌」の雅美さんなら、そのように考えたとしても不思議はないと小川は思うのです。

雅美さんの不幸と誤算は、経験の場を欲望が渦巻く新宿歌舞伎町に求めたことです。

彼女の目にはそこは、校則で縛られ受験に追われ「普通」を装う学校とは対照的に、みんながタブーなしに自分の好きなことを好きなままにしている自由で解放的な空間と映ったのでしょう。そこでは学歴や家庭環境が問題にされることはないのです。

しかしそれが幻影でしかないと気づくには、彼女は未熟にすぎました。その無知と無防備さゆえに雅美さんは、邪悪さを隠した誘いに疑うこともなく乗ってしまい、14歳の命を落としてしまったのです。

そのような雅美さんの行動を、軽率で愚かだと批判するのはたやすいことです。

しかし、若者の未熟さそのものは罪ではありません🥺

未熟な女子中学生が、自分に与えられた境遇やこれからの生き方に悩んで危険な試行錯誤を繰り返していた時、彼女の揺れる思いを受けとめて、共に悩みながらどう生きるか一緒に考えようとした大人が周りに誰もいなかったことが、雅美さんを取り巻く大人社会の罪だったのではないのでしょうか🥺

『FOCUS』1982年6月25日号

その意味で雅美さんは、にぎやかなディスコ音楽の喧騒の中で自由を精一杯謳歌しているようにツッパりながら、心の底では頼れるもののない孤独と不安をずっと抱えて助けを求めていたのではないかと、小川には思われてなりません🥺

クラスメイトが雅美さんを追悼して机の上に手向けた花たち

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