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群衆パニックと「群衆雪崩」

もうすぐハロウィンですね🎃

今、街はハロウィン一色に染まっていますが、ハロウィンと聞くと小川は、去年のソウルで起きた梨泰院雑踏事故のことが思い出されて、なかなか浮かれた気分になれません…🥺

【ソウル 梨泰院雑踏事故】

読売新聞(2022年10月31日)

2022年10月29日、ハロウィンの前々夜の午後10時15分ごろ、韓国ソウルの繁華街「梨泰院(イテウォン)」で「群衆雪崩(なだれ)」による事故が起き、日本人2人を含めて159人(事故後に自殺した1人を含む)が死亡する大惨事となりました。

読売新聞(2022年10月31日)

日本経済新聞(2022年10月30日)

東京新聞(2023年3月27日)

梨泰院は、世界各国の料理が楽しめる飲食店などが建ち並んだソウルの有名な繁華街で、2020年に韓国で放映されたドラマ「梨泰院クラス」の舞台として韓国の若者や外国人観光客の人気スポットにもなっています。

また昨年は、コロナ禍での規制が3年ぶりに解除されたとあって、梨泰院周辺には10万人を超える人が集まっていたそうです。

事故現場となったのは、飲食店街の「世界飲食文化通り」(「世界食べ物通り」「世界料理街」などとも言われる)と地下鉄「梨泰院」駅を南北につなぐ、幅3.2メートル、長さ40メートルの坂道です。

日本経済新聞(2022年10月31日)

この坂道に、駅の方に向かって坂を下る人と、逆に駅から飲食店街に行こうと坂を上る人、合わせて千人を超える人たちが殺到し、身動きが取れない状態になったのです。

現場の坂の傾斜は約10%(勾配5.7度)だそうですから、40メートル行くと4メートル下がる(もしくは上がる)ことになり、新聞によっては「緩やかな坂」と表現した記事もありますけれど、普通の自転車では座ったままこいで上がるのがしんどいくらいの坂道です。

翌30日、事故の痕が残る坂道韓国「中央日報」(2022年11月2日)

この事故で死傷者がもっとも集中したのは坂道の中間付近で、はじめに誰かが転び、周囲の人たちがそこに折り重なるように倒れ、人の波が一気に崩れたと見られています。

都市防災が専門の広井悠・東大教授によると、1平方メートルあたり10人以上が密集している空間で、誰かが倒れたりしゃがみ込んだりすると、その隙間に向かって次々と人が倒れ込んでいくことを「群衆雪崩(なだれ)」と言うそうです。

読売新聞(2022年11月2日)

こうして下敷きになった人のほか、立ったまま胸や腹を圧迫されて呼吸ができなくなったり、血液の循環不全になって意識不明になり、心肺停止になる人が続出しました。

事故の発生を多くの人が携帯で警察や救急に通報し、救急チームがすぐに派遣されましたが、多すぎる人波のために現場への到着までに1時間を要しました。

そのため、心肺停止ではどれだけ早く心臓マッサージなどの救命措置をするかが生死を分けるのですが、手遅れになった人が多かったのが悲劇を拡大しました。

12月2日までに確認された死者158人の3分の2、102人が女性だったのは、背の低い女性に胸を圧迫されて呼吸困難になる人が多かったためです。

ここまでひどい事故になった原因として、警察が雑踏警備に必要な人員を配置していなかったこと、またハミルトンホテルをはじめ坂道の両側の建物の多くが、道路に張り出すように違法増築していたため、ただでさえ狭い坂道がさらに狭められていたことなどが指摘されました。

ハミルトンホテル

なお、死者の中には外国籍の26人が含まれていましたが、韓国に留学中の冨川芽生さん(当時26歳)と小槌杏さん(同18歳)という2人の日本人女性も事故に巻き込まれて亡くなっています。

事故後100日目の追悼式で遺影に献花する遺族福井新聞(2023日2月5日)

【彌彦神社事故 参拝者124人死亡】

梨泰院の事故から60年以上前になりますが、日本でも群衆が狭い空間で将棋倒しになり、多数の圧死者を出す大事故が起こっています。

朝日新聞(1956年1月3日)

1956(昭和31)年1月1日、越後一宮(越後国で最も社格の高い神社)である新潟県西蒲原(にしかんばら)郡弥彦村の彌彦(やひこ)神社で、参拝者124人が死亡、80人が重軽傷を負うという大惨事が起きました。

元旦の出来事だったため、新聞は号外を出してこの凄惨な事故を伝えました。

朝日新聞(1956年1月1日号外)

この年は、好天と豊作に恵まれ、また観光バスなどの移動手段が普及したことから、例年の1.5倍にあたる3万人の参拝者が彌彦神社に詰めかけていました。

前年に続いて彌彦神社では、1月1日午前0時の花火を合図に、拝殿前の参拝者に紅白の「福餅まき」が行われました。

弥彦神社境内図

前年は拝殿から餅をまいたそうですが、拝殿が荒らされる事態が起きたため、この年は随神門の両翼舎の仮設やぐらから広場の参拝者に向けて餅がまかれました。

朝日新聞(1956年1月3日)(加工は小川)

餅まきが始まると、広場の参拝者が両翼舎の近くに集まります。

餅まき自体は数分で終わり、人びとは随神門から石段を降りようと動きました。

ところが、後から来た参拝者が逆に石段を登って拝殿に行こうとします。

この逆方向の二つの人の流れがぶつかるようにしてうずをまき、玉垣に押しつけられた人の圧力で玉垣自体が崩れ、2.5メートル下の地面に人がなだれ落ちたのです。

崩れ落ちた玉垣の残骸

さらに、石段でも折り重なって倒れる人が出、124人もが亡くなる大惨事となりました。

混乱が起こり始めた瞬間とされる写真

(点線の円内の真ん中付近)

朝日新聞(1956年1月3日)

現在の随神門

事故後に石段が元の位置(赤線)から拡幅され

階段の両脇にも玉垣が作られた

彌彦神社事故でも、梨泰院の事故と同様に、狭いところで逆方向の人の流れがぶつかり合った混乱が悲劇を生んでいます。

人の流れを方向によって分離して誘導するか、一方通行にするかすれば防げた事故でしょうが、この場合も警備の警察官は3万人の参拝者に対してわずか36人、しかもその多くが駐車場での交通整理にあたっていたそうです。

運び出される犠牲者の棺

神社関係者についても、例年より多くの人出があることを予想しながら、必要な対策を怠っていたとして責任者が過失致死容疑で逮捕され、有罪となっています。

この事故を受けて彌彦神社では、翌年から餅まきは中止となり、上の写真のように石段が拡幅されたほか、参拝を終えた人は左右の脇参道から帰る一方通行にしたそうです。

なお、事故から6年後の1962(昭和37)年5月に、神社の境内に犠牲者の慰霊碑が建てられました。

慰霊碑

「将棋倒し」で新聞記事検索(朝日新聞)をすると、かなりの数の事故がヒットします。

紙面だけですがその一部を紹介しておきます。

①大阪造幣局 夜桜見物事故(1967年)

朝日新聞(1967年4月23日)

②奈良 ザ・タイガース公演事故(1967年)

朝日新聞(1967年11月6日)

③大阪万博 動く歩道事故(1970年)

朝日新聞(1970年3月26日夕刊)

④ギリシャ アテネ サッカー場事故(1981年)

朝日新聞(1982年2月9日夕刊)

⑤大阪天王寺 電車暴走事故(1982年)

朝日新聞(1982年1月29日夕刊)

⑥中国 太原市 貿易フェスティバル事故(1992年)

朝日新聞(1992年1月25日)

⑦大阪 新交通システム事故

朝日新聞(1993年10月6日)

⑧サウジアラビア メッカ巡礼事故(1998年)

朝日新聞(1998年4月10日)

最後に

今回は、密集して動きが取れなくなりパニックにおちいった群衆が、何かのきっかけで一気にバランスを崩し、下敷きになった人が圧死するという恐ろしい事故について取り上げました。

また、梨泰院の事故のように、たとえ倒れなくても周囲からの圧力で立ったまま呼吸ができなくなったり血液の循環が不全になって心肺停止になることがあるということも、小川は初めて知りました。

ところで、梨泰院の事故を報じた新聞の多くが、それと類似した群衆雪崩の事故としてあげていたのが、2001(平成13)年7月21日に兵庫県明石市で起きた「明石花火大会歩道橋事故」です。

前日の7月20日から、明石市大蔵海岸通りの人口砂浜に約180もの夜店が出て、「第32回明石市民夏まつり花火大会」が開かれました。

二日目の7月21日は、午後6時ごろから見物の市民が多数つめかけていました。

午後7時45分から花火の打ち上げが始まります。

JR朝霧駅と大蔵海岸をつなぐ歩道橋には人があふれて身動きがとれにくくなっていましたが、午後8時をすぎると歩道橋は1平方メートルあたり約13人という超過密状態になり、21分には「朝霧駅周辺、人が多すぎて助けて」という最初の110番通報がありました。

午後8時半過ぎに花火の打ち上げが終わると、歩道橋の海岸に近い南端部分では、駅に帰ろうとする人と、海岸に出ようとする人の流れがぶつかり合って動けなくなる危険な状態になりました。

住民が撮影した現場の写真手前が駅側

歩道橋は天井部の真ん中が開いているもののそれ以外はプラスチック板で覆われているため、蒸し暑さと酸欠状態で失神したり転倒する人が出て、「群衆雪崩」が起きたのです。

歩道橋から階段で降りると

180の夜店が並んでいた

長さ100メートルのこの歩道橋は、幅が6メートルで梨泰院の坂道の倍近くあります。

しかし、6千人を超える人が殺到したのと、歩道橋を渡ってから海岸へと降りるには、歩道橋より幅の狭い階段ひとつと10人程度が乗れるエレベータしかないため、大人数が殺到すると多くの人が滞留せざるをえないボトルネックの構造だったことが災いしました。

歩道橋の南端向かって左に階段、その横にエレベータがある

この事故では、11人が亡くなり183人(明石市によれば247人)が負傷しました。

亡くなった11人のうち9人が小学生以下の子どもで、2人が70代の高齢女性でした。

高齢女性の1人は、群衆雪崩に巻き込まれた母親の手から離れて押しつぶされそうになっていたベビーカーから、乗っていた生後二ヶ月の乳児を抱き上げて人に託したものの、自らは力尽きて亡くなった草替律子さん(当時71歳)でした。

この事故でも、群衆が殺到することで起きる事故の危険性についての認識が、明石市・兵庫県警(明石署)・警備会社のいずれも甘く、三者の打ち合わせも警備計画もずさんなもので、警察官の多くは夜店の周辺や暴走族への対策に配置されていました。

事故の現場をぜひ見ておきたいと思った小川は、9月26日の夕刻、仕事帰りに問題の歩道橋を訪ねました。

JR朝霧駅のホーム(歩道橋が見える)と改札口

とても狭いという印象です

駅の改札を出ると右手すぐに歩道橋の入り口があります。

平日の午後5時過ぎなので学校帰りの生徒たち以外には人通りも少なく、かなり幅の広い通路だとの印象を受けました。

事故当時はここに6千人とも8千人とも言われる人がつめかけ、身動きの取れない状態になったそうですが、普段のこの様子からは小川にはその実感がなかなかわきませんでした。

歩道橋の天井はこのように開いていて、見上げると空には秋の雲が見えました。

大混乱の痕が残る事故直後の歩道橋

同じ場所の現在

歩道橋を渡った先で海岸に降りる階段には「朝霧歩道橋」のネームプレートが。

歩道橋の南端西側には事故の翌年、犠牲者を追悼するモニュメントが遺族の手で設置されています。

小川も、亡くなった方たちを偲んで、お花を供えさせていただきました。

碑には草替律子さんら9人のお名前が刻まれています

大蔵海岸を眺めていた小川は、ようやくあることを思い出しました。

明石海峡大橋が望める

それは、この事故と同じ年の12月30日、大蔵海岸の人工砂浜で陥没事故が起き、父親と散歩していた4歳の少女が巻き込まれて砂に埋もれた明石砂浜陥没事故です。

少女は助け出されて病院に救急搬送されましたが意識が戻らず、翌2002(平成14)年5月26日に亡くなりました(享年5歳)。

下に降りてみると、少女の追悼モニュメントがありました。

少女のモニュメント「愛しい娘」

(海岸の安全を誓う碑)

読売新聞(2007年1月10日)

少女のブロンズ像は、歩道橋事故で亡くなった11人の命を11個の球体で表現した明石歩道橋事故防止碑「いれぶんはーと」と並んで設置されています(向こうに見えるのが朝霧歩道橋)。

読売新聞(2005年4月8日)

歩道橋事故から4年後の2005(平成17)年11月、「この死亡事故を教訓として警備業法と国家公安委員会規則が改正され、警備業務検定に従来の常駐警備、交通誘導警備等に加え、雑踏警備が新設された」(ウィキペディア)そうです。

しかし、これだけ多くの類似した事故が起きているにもかかわらず、「群衆雪崩」など雑踏で起こる事故の危険性が十分周知されているとは思えません。

こうした悲劇が2度と繰り返されないよう、私たちがこういう危険な状況に巻き込まれないためには何に注意すればよいのか、またもし巻き込まれた場合にはどうすればよいのか、もっと広く情報提供をしてほしいと思いながら現場を後にした小川です🥺

最後までお読みいただき、ありがとうございました💞

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